Porsche 911 Carrera
僕がポルシェ911を手に入れるまでの長いお話
『僕らがポルシェを愛する理由』(中央公論社文庫)より
本物のポルシェ911について書く前に、幻想の中の911について書くことを許していただきたい。イリュージョンの中のポルシェが、魔法によって現れるシンデレラのカボチャの馬車のようにぼくの目の前に姿を見せるまでには、それなりの時間が必要だったからである。
長い間、ポルシェ911はぼくにとって憧れの車だった。中学生の頃から、いつかポルシェ911に乗りたいと思っていた。だが、話はもっと前に遡る。
これは男の子の本能みたいなものなのかもしれないが、ぼくは幼稚園に通う頃から既に車というものが大好きで、小学校の低学年の頃には、道を走っている車の車種はすべて言うことができた。
後年父親に聞いた話だが、ラビットという富士重工のスクーターの前に乗せられて町を走っている時、初めて見る車とすれ違うと子供のぼくは必ず聞いたものだそうだ。
「あれ、なんて車?」
父親が名前を教えると、すぐに覚えた。他のことは、遊んだ玩具は片付けろとか食事の前には手を洗えとか、そういうことはすぐに忘れても、車の名前だけはカタカナであったにもかかわらず一度ではっきりと覚えることができた。
そう言えば、こんな質問をしたこともあったらしい。
「世界でいちばんいい車はなんて車?」
この時の、現在のぼくより年下だった父親の答は、今でもはっきりと覚えている。彼はこんなふうに言ったのだ。
「キャデラックか、ロールスロイスだろうな」
ぼくは、さらに尋ねた。
「自動車って、うんと高いものなの?」
一家に一台の乗用車が普及するなどとは、誰も想像さえしなかった時代の話だ。
「うん、それは高いよ」と父親。
「毎日働いてお金を稼いでも買えないくらい高いの?」とぼくは食い下がる。
「そうだな、毎日働けば買えるかもしれないな」と父親。
すると真剣な表情で、ぼくは決意を述べたのだそうだ。
「それじゃあぼくは、夜も寝ないで働いて、ぜったいに自動車を買ってみせるよ」と。
一九五〇年代の子供達は、少なくとも男の子達は、多かれ少なかれみんなそんな感じだったのではないだろうか。自動車とは、憧れであり、夢であり、希望だったのだ。自動車というものは、そのスタートからして実用本位ではなく、夢や憧れのようなものだったのだろう。自動車というものを人類が発明した時、人々がそれをA地点からB地点まで人間や荷物を運ぶことのためには使わなかったという話はご存知だろうか? それでは、彼らはそれを何に使用したのか? 彼らは、出来上がったばかりの自動車を使って、競争したのである。
小学校へ通うようになると、ぼくはミニチュア・カーのコレクションをはじめた。その中でいちばん好きだったのは、淡いブルーのシボレー・インパーラーという車だった。尾翼がグラマラスに張り出した、走るアール・デコのような車だ。
この頃、つまり一九五〇年代の終りから六〇年代のはじめにかけての代表的なスポーツカーは、ジャガーやMGやトライアンフといったイギリス勢のロードスターだった。ポルシェは356を生産していたわけだが、少なくともぼくら子供達はそんな車は知らなかった。人気があったのはイギリス勢で、その中でも一九六一年にジャガーEタイプがデビューすると、シーンの人気を一気にかっさらってしまった観があった。なにしろ、その存在を、まだ小学校の低学年だったぼくらがはっきりと認識していたのだから。ジャガーEタイプは、ぼくが初めて明確な憧れをかきたてられたスポーツカーだった。長いノーズに収められたストレート6のエンジン、丸みのあるボディ、繊細そうなそのたたずまい。あんな車をこの目で見てみたいなあ、と思ったものだった。
話が脱線してしまうが、このジャガーEタイプのエンジンは3・8゙の直立6気筒で、269馬力。最高速度は240km/hに及んだのだから凄いとしか言いようがない。実は、今ぼくの自宅の近所のガレージに淡い黄色のジャガーEタイプが入っており、ぼくはオーナーであるその家の人に声をかけたいと思いながら、おかしな奴だと思われるのが嫌で実行できないでいる。
とにかく、911がデビューするまでは、フェラーリ250GTベルリネッタやマセラッティ3500が存在していたとは言え、スポーツカーの中心はやはりジャガーを生んだイギリスだったのだろうと思う。それは、イギリスが第二次世界大戦の戦勝国であり、イタリアやドイツが戦争に敗北した国であったという事実と無関係ではないに違いない。
子供達はもちろんそんな車には乗れないし、実物を見ることさえできなかった。そんなぼくらがどうしたか? プラモデルを作ったのである。ぼくも、トライアンフとジャガーEタイプのプラモデルを作ったという記憶がある。畳の上にトライアンフやジャガーEタイプや、三十台以上はあったミニチュア・カーを並べて、自分は寝転がって頬杖をつき、それぞれの車をうっとりと眺めていたものだった。
やがて、レーシング・カーというものが流行しはじめた。デパートの屋上や玩具売り場にコースがあり、そこで自分のレーシング・カーを走らせるのだ。ぼくはフェラーリを、弟は葉巻型のポルシェのF1モデルのレーシング・カーを持っていた。見知らぬ子供とレースで負けると、悔しくて眠れなかった。電流の接触をよくしたり、モーターを調節したりして、次回に備えたものだった。
初めてポルシェ911を意識したのは、中学生の頃の、車の雑誌でだった。一九六六年か、一九六七年頃のことだと思う。クロームのバンパーの、今で言う白いナロー・ポルシェの写真が掲載されていた。なんて美しいスポーツカーなんだろうと思った。既にポルシェという名前は知っていたから、これがあのポルシェという車なのかと思った。
そのグラビアの中の1台のスポーツカーは、他のどのような車とも違うスタイルだった。
上品な貴婦人みたいな感じがした。アメリカの馬鹿でかい車や、イタリアの挑発的なスタイルのスポーツカーとはまったく別の種類の車に見えた。ふくよかに盛り上がったフェンダーとヘッドライトの感じなど、あのジャガーEタイプとどこか共通する雰囲気も感じられたが、やはりはっきりと違った。ポルシェ911は小さく、優雅で、軽快な感じがし、そして多分、世界一速い車なのだ。
子供は子供なりに、仲間同士で自分は何がいちばん好きかということを話しあったりするものだ。ストーンズとビートルズのどちらが好きかとか、フェイ・ダナウェイとドミニク・サンダとどちらがいいかとか、そういう他愛のない話である。男の子達の間で車は既に重要な話題のひとつだったが、その人気を二分していたのがポルシェ911とジャガーEタイプだった。学生服を着た中学生のぼくは真面目な顔をして宣言したものだった。これからぼくはポルシェのほうのファンになる、と。
ぼくは911のグラビアを切り抜いて、部屋の壁に貼った。飽きもせず、毎日眺めた。それからは、ポルシェ911が表紙になっている自動車雑誌ならなんでも買った。今のように、そんなにたくさんの自動車雑誌が出版されているわけではなかったから、ポルシェの記事はどんなに小さなものでも貴重だった。
高校生の頃は、どういうわけか車にはあまり興味がなかった。自分でオートバイの免許を取ってCL50というバイクを乗り回すようになり、興味の対象が自然に身近なオートバイへと移ってしまったからだ。
大学に入ってから、友人達の何人かが父親に、入学祝にということで車を買ってもらった。ケン&メリーのスカイライン、カリーナ、ジェミニLS……。ぼくの場合はどうかというと、高校を卒業すると同時に家出してしまっており、アルバイトで日々の生活費を稼ぐことに明け暮れていたから、とても車どころではなかった。真っ赤なジェミニを買ってもらったばかりの友人に、値段を聞いてみたことがある。ちょうど一〇〇万円ぐらいだった、ということだった。一〇〇万円かあ、とため息が出たものだった。気が遠くなるような大金だった。おれには、やっぱり車なんて高峰の花だなと思った。
その頃のぼくはロックンロール・バンドをはじめていたから、悔し紛れに言ったものだった。
「よし、おれはそのうち一発あててポルシェに乗るんだ」と。
だが、まだ十代の少年だった。その言葉には、現実感などなかった。
今でも、親に車を買ってもらう男になんてろくな奴はいない、とぼくは思っている。今度法律を改正して、親に買ってもらった車はピンク・ナンバーにすればいいのである。そうすれば、フェラーリであろうがスカイラインGTRであろうが、ピンク・ナンバーを見つけたらパッシングしてやるのに……。
やがてぼくは、友達から初めての車を五万円で手に入れた。車検付でその値段だった。メーターがひと回りした、ブルーバードSSSのライトバンだ。友人はそれを自主制作映画の撮影の折りに器材を運搬するのに使っていた。ぼくはそれを、バンドのライヴの時の器材運びに使うことになった。オートバイではアンプが運べないから、重宝した。
もちろん、器材車としてだけ使用したわけではない。デートにだって使った。夏になると、その車で海に出かけたりもした。楽しかった。
ごくたまにだが、ポルシェ911とすれ違うことがあった。助手席に誰か乗っていると、ぼくはそれが誰であろうと言ったものだった。
「おい、見ろよ。ポルシェだぜ」と。
環状八号線を走る時など、ディスプレイしてあるユーズド・ポルシェの前に自分にブルーバードを止め、飽きもせずに眺めていたものだった。
ポルシェ911が急に現実味を帯びて感じられるようになったことが、大人になってから三度ある。
最初は、或る冬の夜のことだ。
ぼくはもう小説家としてのスタートを切っていた。だが、文芸雑誌にぼちぼち原稿が掲載されるようになっただけで、著書というものはまだ一冊もなかった。二十四か、五の頃のことだと思う。
先輩作家の五木寛之氏が、六本木で夕食を御馳走してくれた。その後コーヒーを飲もうということになり、二人で通りをぶらぶら歩いていった。既に遅い時刻で、六本木とは言え閑散としていた。飯倉片町の交差点で、五木さんが足を止めた。三和自動車のショー・ルームがあり、新品のポルシェ911が飾ってあった。五木さんが最初の911を手放してから、何年かが経過していた頃のことだと思う。
「やっぱり、こいつはいいなあ」
独り言のように、別れた女を懐かしむように、その頃BMW633csiにお乗りになっていた五木さんが言った。
「ぼくも、いつかこれに乗りますよ」
ランサー・セレステに乗っていたぼくは、そう言った。そんなこと言ってないで真面目に小説をい書きなさいと叱られるかと思ったが、五木さんの返事はそうではなかった。
しばらくしてから、彼はこう言ったのだ。
「絶対にそうしたまえ。必ず乗りなさい。しかも、若いうちに。できれば、二十代のうちにね。君はロックが好きなんだし、きっと似合うよ。うん、ポルシェ911は君に似合う」
それ以来、ぼくは一人でよく飯倉片町のポルシェのショー・ウィンドウの前に立ってみるようになった。誰かといっしょの時には、絶対にそんなことはしない。たった一人でいる時だけだ。
ガラスの向こうには、中学生の頃雑誌のグラビアで眺めた911とほとんど変わらない本物の911が、そっと置かれていた。不思議な気がした。フェラーリもロータスもフェアレディZも、多くの車がモデルチェンジしていくのに、911は遥かな時の流れを通り越えたように、そこにあった。あのジャガーEタイプは既に生産が中止されていた。だが、911はいつもそこにあった。そして911は、いつでも、世界でいちばん速いスポーツカーの一台でありつづけたのだ。
そう言えば、その後五木寛之氏は赤の911SCを手に入れ、シートをレカロに換えガンメタに塗り替えてしばらく乗っていた。それを、譲ってもいいと言ってもらったことがある。格安の値段だった。だが、それにしても、ぼくには手が届かない額だった。五木さんにローンを頼むわけにもいかず、泣く泣く見送ったことがった。
それから、ぼくはその後自動車というものについてありとあらゆることを学ばせてもらうことになる、年上の友人と知り合うことができた。それは、徳大寺有恒氏である。
徳大寺さんをリーダー格に、何人かの仲間が仕事を離れて月に一度飲む会というのをやっていた時期があった。夕方集まり、次の日の朝まで、酒を飲みながらえんえん自動車の話をするのである。ある夜、ぼくは彼にポルシェ911とはどういう車かと聞いてみたことがある。
パイプを片手に、ぎょろっとした目でぼくを見上げ、あの徳大寺有恒は言った。
「君が高速道路を走っているとしよう。夕方だ。少し混んでいるが、君は急いでいる。あそこに割り込みたいな、と思ったとしようじゃないか。ポルシェって車はね、その瞬間にそこにいるんだ、気がつくと、もうそこにいる。そういう車なのさ。そうか、とうとうポルシェを手に入れる気になったか。よかった。おれ達もうれしいよ」
その頃ぼくは、ピアッツァXEに乗っていた。その会の仲間は、みんなジャガーだのフェラーリだのメルセデス300SLだのベントレーだの911カレラRSだの……考えてみれば凄い車に乗っていた。だが、そんな彼らは、ぼくに隠れてちゃんと約束でもしてるんじゃないかと疑ってしまうくらい、彼らが乗っているいろいろな名車の話をした後は、しかしピアッツァもいい車だよと必ずつけ加えるのである。エンジンはジェミニだけどな、と言う口の悪い人もいたが。これは、オートバイ評論家の万ちゃんこと万沢康夫氏である。 ぼくは徳大寺さんに、さらに質問した。
「911ってリア・ヘヴィで、やっぱりけっこう危ないわけでしょう?」
徳大寺さんの答はこうだった。
「君がワインディング・ロードを走っているとしよう。雨上がりだ。だが君のことだ。けっこう無茶をしている。コーナーを抜けて、加速する。ストレートだよ。すると、水たまりがあった……」
「あ、まずいね。それってさ、どうすればいいわけ? 一応クラッチ切ったほうがいいのかな」とぼく。
「そんな時には、あの車じゃもう打つ手はない。せいぜい、神に祈るぐらいだな。もっとも、その時間があればの話だが。いや、しかし、君には911しかないって。似合うと思うよ。ほんとはアルファとか、ラテンの血が騒ぐのに乗って欲しいって気はするけど……やっぱり、911しかないだろうね」
会のメンバーが、そうだね、やっぱり山川君には911しかないだろうね、と口々に言い始めた。
「やっぱり、そうだよね。うん、おれもそう思うんだけどさ……」
酒に酔っていたこともあるが、そんなにいい気分になれたのは、生涯に二度か三度しかない。まあ、諸先輩方にしてみれば、一日も早くジェミニのエンジンに気をつかうのをやめたかっただけの話かもしれないが。
それからまたしばらく経ったある日の午後、ぼくは神宮外苑から青山トンネルをくぐり、
明治通りを突っ切って原宿の駅のほうへピアッツァを走らせていた。珍しくがらがらに空いていたので、けっこういい気分で走っていた。
すると、向こうから一台の白いポルシェ911が走ってきた。サイドに真っ赤な文字で<Carerra >と染め抜いた、一九七三年のカレラRSだった。珍しい車だからあれっと思ってドライヴァーを見ると、月に一度の車の会のメンバーでもある、その頃『ベスト・バイク』というオートバイ雑誌の編集長をしていた新美久始という友達だった。まあ、彼も年上なのだが、男の友情には年齢なんて関係ないのだ……ということにしておこう。
ポルシェ911カレラRS2・7は一九七三年にポルシェ社が新しいレギュレーションをクリアするために五〇〇台だけ限定生産した、レーシングカーのホモロゲートモデルだ。911の採算分岐点は年間三万台だと言われており、これだって日本やアメリカのメーカーに較べれば驚くほど少ないわけだが、それに比較してもRS2・7の生産台数がいかに少ないかということがよくわかるだろうと思う。この五〇〇台は生産が発表されると同時に予約で売り切れ、ポルシェ社はさらに五〇〇台を追加生産しなければならなかった。エンジンはその名前の通り2・7゙ながら210馬力であり、一九八四年に911カレラが登場するまでは最強の911でありつづけたのだ。
カレラRS2・7はもの凄いスピードで緩やかな坂道をのぼってきて、対向車のぼくにはまったく気がつきもせずに、カーンッという高音域の小気味のよいエンジン音と排気音をのこすと、風のように走りさってしまった。
ぼくは、すぐに赤信号で止められた。竹下通りの入り口にある信号だ。なんてイカした車なんだろう、とぼくはため息をついた。それまでにも、彼の911RS2・7は何度も見ていたし、乗せてもらったことも一度や二度ではなかったが、その時の911RS2・7は何か特別だった。
どんなことをしてでも、一日も早く911を手に入れようとその時決めた。それまでは、
ちょっとした事情があって、BMWに乗り換えるか911にするかまだ迷っていたのだ。 十歳以上年上の親しい友人が癌で亡くなり、彼が乗り継いでいたのがBMWの3シリーズだった。BMWなんてまだほとんど日本を走っていなかった頃から、彼は同じBMWの、しかもシルヴァーメタリックの3シリーズだけを乗り継いでいた。ぼくもBMWに乗りたいなと思い始めた頃、彼が急逝した。ちょうど車を買い換えようと思っていたぼくは、あれは彼の車なのだからとBMWをあきらめ、ピアッツァにしたという経緯があった。だが、やはり一度BMWに乗ってみたいと思うようになっていたのだ。ほんとうに年齢を超えて信頼し合っていた亡き友人が、どんな気持でBMWばかりを乗り継いだのか、その理由を知りたいと思ったからだ。
だが、風のように走り去った911を見て、やはりポルシェ911しかないなと思ったのだ。彼の過去のことに思いを巡らせるより、自分の未来に目を向けようという気持もあった。一九八〇年代のポルシェ911カレラに乗るんだと一人きめ、いよいよだなと思いため息をついた。そう決めただけなのに、鼓動が速くなってきたのを、昨日のことのようにはっきりと覚えている。
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